イモに月がでる

アイルランドは人類史上、ジャガイモを主食にしたことのある唯一の国である。また、ヨーロッパではジャガイモが広く行き渡って以降、大きな飢餓は一度も起きていないが、唯一の例外はアイルランドで1845年から49年にかけての病害による悲劇であった。

 

アイルランドにジャガイモは、新大陸発見直後、沖合で難破したスペイン船から伝わったという説があるくらい、ヨーロッパ諸国の中でもっとも早く伝わったとされる。その後、寒い国の痩せた土地でも育つジャガイモは、人々のお腹を満たす重要な作物となっていた。といっても16世紀末から17世紀後半までは、ジャガイモはまだ主食である麦類が不作の時の予備食とされており、18世紀中頃までは貧しい人々の冬の食糧という位置付けだった。しかし、徐々に、効率を求めて穀類からジャガイモへのシフトが進んでいった。

 

アイルランドでは1740年に大飢饉に見舞われているが、このときはジャガイモがある程度普及していたため救われている。しかし、1845年にはそのジャガイモが飢饉の原因をもたらしてしまったのである。ジャガイモ原産の南アメリカからベト病の一種の病原菌がヨーロッパに侵入した。1830から40年にかけて、ドイツ、北欧、ベルギー、フランスへと病原が伝わり、1845年にブリテン島からアイルランドに侵入し、上陸した病原菌はあっというまにジャガイモを全滅させた。

 

食べるものを失い多くの人々が命を落としている。1845から51年の7年間に、150万人が飢餓で亡くなり、100-150万人といわれる人々が故国を捨てアメリカに移民した。アイルランドの人口は、ジャガイモによってそれまでの100年間に倍増して800万人に達していたが、ジャガイモのために半減してしまった。ヨーロッパのほぼ全ての国でこの病害が発生したが、アイルランドが特に悲惨であったのは、18世紀後半から約100年で、穀類からジャガイモへと主食が完全に移行したからである。

 

ジャガイモへのシフトは1810年ごろに顕著になっていた。夏の間にはオート麦入りパンがありはしたが、おなかをいっぱいにするのはジャガイモだった。牛を飼い穀類も栽培していたが、麦や肉はイギリスに輸出し、自分たちが食べるのはジャガイモばかりな状態になっていた。ジャガイモは茹でで食べていた。皮ごと茹でられたジャガイモが食卓を占め、家族全員がそれを囲んだ。ひとり1日で4キロも5キロも食べたという。

 

ジャガイモでお腹いっぱいにできる時代も終わりがくる。19世紀半ば頃になると連作障害による不作続き。種イモの劣化。芋は水っぽく栄養低下。ハトの卵より小さいイモしかできないこともあった。

それでも、もう穀物は作っていない。飢餓が襲った1845年頃には、多くの家庭でパンは誰も見たことがなく、台所にはジャガイモを茹でる鍋しかなかったという。主婦はジャガイモを茹でる以外料理を知らなかった。

 

こうして単作に特化したため、じわじわと衰えが見えてきたころに病菌によって壊滅被害がもたらされた。行き残った人々は「月がでている」ジャガイモを食べて飢えを凌いだ。

ジャガイモに完全に火を通すと、柔らかくなり食べやすいが腹もちが悪い。そこで外側だけ茹でた生煮えのイモを食べたのだった。消化が悪く、長い時間腹にもたせるためである。

その生煮えイモを切ると、火の通っていない中心部は色が違って見える。その丸い形を月に見立て、「きょうのイモ には月がでているぞ」といって笑って食べたとか。追い詰められても笑いを忘れない、冗談好きなアイルランド人のプライドだったのだろうか。

ジャガイモは新大陸からの贈り物

ジャガイモはアメリカ大陸原産。ヨーロッパへ伝えられたのは大航海時代の16世紀であるものの、広く食べられるようになったのはそのずっとあとでのことである。

 

ジャガイモは紀元前3000年前に栽培化された古い植物。原産地はアンデス山地で、原種は特定されていないがペルーからボリビアにかけての高地の野生種とされる。この地域の先住民の食糧として、とうもろこしが重要であったが、それに次ぐ。とうもろこしより標高の高い山地でも栽培できる特性と、チューニョとして通年保存できる利便性をもつ。インカ帝国の礎を築いた点でも重要であった。

 

ja.wikipedia.org

チューニョとは、フリーズドライ(凍結乾燥)による保存ジャガイモ。寒暖の差が大きい高地では、イモ をよる外に出しておくと凍結する。それを昼、太陽で溶けたところを足で踏んで水分を出す。これを何日か続けると、完全に水分の抜けた乾燥ジャガイモになる。インカ帝国ではこれを大量につくり、各地の倉で保存し、必要に応じて民に配給して治安維持にも、軍隊の兵糧としても活用できた。

 

ジャガイモがヨーロッパに伝わったのは1532年。フランシスコ・ピサロのスペイン軍がペルーを蹂躙し、もち帰ったジャガイモを当時の教皇に献上した。コロンブスはこれより先に西インド諸島に上陸しているが、カリブ海の島にはジャガイモはなかった。サツマイモはあったが。高地のジャガイモはこの時点でメキシコ半島でも知られていなかった。

 

サツマイモもアメリカ大陸原産の重要作物であり、伝搬時期もジャガイモと同じかそれより前であるにもかかわらず、ジャガイモの現在ヨーロッパ料理に溶け込んでいるの対し(むしろ何千年も前からあるような)、サツマイモはそれほどであり、何か異国情緒ある野菜である。これはジャガイモの寒冷気候への適応力の差だろう。

 

この頃伝わったイモ類、ナス科のジャガイモやヒルガオ科のサツマイモと共に、キク科のキクイモ(トピナンブルー)が新大陸からの伝わり、むしろこちらの方が最初のうちは人気があった。その後はご存知のように(なのか、ご存知でないように)ふるまっていない。 結局、ジャガイモだけがヨーロッパで不可欠な作物として地位を獲得したことになる。

 

ジャガイモは最初普及のスピードが遅かったが、その理由は当時のイモが小さくて不味かったことが挙げられる。苦みも強かったし、消化も悪かった。最初はクリのように焼いて食べてられていた。小さいから皮ごと食べ、それゆえ泥臭いので、スープに入れられない。

 

アンデスの先住民には品種改良という概念がなく、大きくて形のよいイモは食べて、姿の悪いものが種イモとして植えられた。しだいに品質が劣化しヨーロッパに伝わったものは皮も剥けない小さいイモだったとか。

 

ヨーロッパの中部北部の寒冷な地域では生命力の強いジャガイモが多くの飢饉を救った。戦乱や飢餓のたびに、救荒作物ジャガイモの作付け面積は広がった。比較的温暖な地域でも栽培が可能で、小麦の不作があると需要が増す。じわじわとまずいジャガイモが広まっていったのである。1760年以降は品種改良も積極的に行われるようになり食味も向上した。さらに19世紀末に品種は急増し、現在では数千を超える。

トウガラシと、ピーマン、パプリカ

トウガラシ(唐辛子)は、現在のメキシコ付近の中央アメリカ原産とされる。紀元前5000年にはすでに栽培されていた古い植物である。コロンブス西インド諸島に到着したとき、緑色のトウガラシをみて、それを最初コショウと間違えたらしい。ただ、いくら緑色といってもトウガラシとコショウは姿形がだいぶ違う。実際のところはインドに上陸したつもりでいたので「インドにはコショウがある」という思いからの思い込みかもしれない。どちらにしても、食べてみるとトウガラシとコショウの違いは歴然。両者刺激が強い点は共通であるが、トウガラシのもつストレートな辛さはコショウにはない。

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トウガラシ

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コショウ。枝の先にブドウの房のようになったコショウ果実。コロンブスは乾燥したコショウの実しか知らなかったのか。



 

スペイン語でコショウを意味する「ピメンタ」に対して、「ピメント」とトウガラシを呼んだ。ピメンタは女性形、ペメントは男性形。同じスパイスなので共通の名前だが、より強く荒々しいトウガラシを男性に見立てた。

 

 

ちなみに、ピーマンはこのピメントから来た名前。ピメントをフランス式に発音すると、語末の子音を発音しないのでピマンもしくはピーマンになる。日本でピーマンというと辛くないが、ピーマンには実は辛いものも辛く無いものもどちらもあり、トウガラシの仲間。トウガラシには辛いのと辛く無いものがある、とするのが正しい。

 

 

英語ではコショウもトウガラシも「ペッパー」。区別するときは、トウガラシをホットペッパー。つまり「辛いコショウ」。英語では「辛い」と「熱い」をともにホットと呼び区別しないのは、もともとトウガラシのように食べられないくらい辛い食べ物がなかったから。最近は料理にトウガラシが多用されるようになり、この辛みを表すのはhotではなく、pungent(〈味・においなどが〉刺激性の、 刺すような)という形容詞が使われるようになった。じつはじつは、日本語も同じ。塩にもトウガラシにも同じ「辛い」という形容詞を使う。同じ言葉で表現している。

 

 

もともとアメリカ大陸中南部地域以外では世界中でトウガラシ的な「辛い」食べ物がなかったので、それを表現する言葉はなかった。
原産地でトウガラシを「アヒ」、もしくは「チリ」と呼ぶので、英語でチリペッパーと呼ぶことはある。なお、このチリは国名のチリとは全く関係ない!

 


日本でピーマンというと辛くないものを指すが、それは日本でピーマンとフランス式になっているように、ヨーロッパから伝わってきたからである。フランスのトウガラシ(つまりピーマン)に辛みがない。ヨーロッパでは辛いトウガラシは辛すぎて受け入れられなかった。

 


ヨーロッパの一部、イタリアや南フランスなどの地中海沿岸地域で辛いトウガラシは料理に用いられるが、韓国、タイ、インド料理ほど辛い料理はない。それより北、ヨーロッパ中心から北にかけて辛いトウガラシの影響はない。(例外だと、東欧のルーマニアの山間部では強烈に辛い、小さな青色トウガラシを生のままかじりながらスープを飲むことがある)

 

 

ヨーロッパ中部にあるハンガリーは料理にトウガラシを大量に使うヨーロッパの唯一の国。国民食であるグヤーシュ※というスープ。大量のパプリカ粉末を加えるので、赤いトウガラシ色をしているので、見た目は辛そう。でも、食べてみると辛みはほとんど感じない。※ ハンガリアン・グヤーシ: 牛肉と玉ねぎ、じゃがいも、人参などの野菜を煮込んだスープ。

 

 

パプリカはハンガリーで生まれている。パプリカという名前は、ギリシャ語のペペリ or ピペリ(ペッパーと同源)がバルカン半島に伝わるとき、ピペルケ、ぺぺルケ、パパルカ・・・と変化してパプリカになった。当初トルコから伝わったパプリカは辛みの強いタイプだった。それでもコショウよりはるかに安価で、スパイス効果が得られたため牛肉の料理に合い、最初のうちは我慢して食べられていた。

※ パプリカ: トウガラシの栽培品種の一種。赤・黄・オレンジ・紫などさまざまな色があり,肉厚で甘味が強い。

 

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パプリカ。

 

トウガラシの辛味成分カプサイシンは、種子が付いている隔壁のところから分泌されるので、ここをハンガリー人は収穫の時に取り除いて使っていたという。その後、辛み成分を減らそうと品種改良がすすみ、香りがよく辛みがマイルドな現在のパプリカとなった。ハンガリーのパプリカ(トウガラシ)は、スペイン人やポルトガル人によって新大陸から直接持ち込まれたわけではなく、インドにあったポルトガル植民地にオスマン帝国が侵略した際にトルコ人が入手し、そのトルコ人ハンガリーを占領した16世紀に持ちこんだとされる。その後、ハンガリーで長い時を経て現在のパプリカになっていった。

 

出典

世界の野菜を旅する (講談社現代新書) | 玉村 豊男 |本 | 通販 | Amazon

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